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周辺クイズ12.5編

20100622-6杏(背後) (113x150) (2)
 
今日の周辺クイズの前に・・・

この写真は3日の周辺クイズ出題の 舟越保武作 『杏』デス。

両方の掌に杏を握りしめて、薄絹をまとった美しい少女が中津川方向を見つめ立っています。


台座は若々しさと上品さを兼ね備えた薄紅色の大理石。
もし、この台座を上から見るなら、変形した十字架にも見えます。

テレビ岩手のロビーから眺めればこの後姿。

会社の正面や、ロビーに設置、あるいはせめてロビーから正面が見えるように・・
個企業の所有の彫刻ですから、そのように設置するのが一般的でしょう。
 
同じ並びにある市役所裏の、同じ舟越作品「笛を吹く少年」も、

市庁舎の入り口にでも置けばもっと多くの方々に見てもらえるのでは?


いえいえ、やはり、盛岡は中津川あっての盛岡ということで・・・。

中津川沿いのビクトリアロードの主役は、川沿いを歩く人。

彫刻の数々はすべて中津川に面しています。

と、いう復習のあとは

今日の問題です。

20100622-71牛越場下から (150x113)

Q1 上の橋のほんの少し上流に見られるこの坂道。
これは藩政時代からのなごりですが、何のための坂道でしょう?
ヒント:藩政時代にももちろん上の橋はありましたよ。
  (城下町造りでは、一番最初の頃に架けられましたから)


上の橋からほんの少し上流にあるこの坂は・・『牛越場(うしこえば)』です。
藩政時代、
岩泉あたりから北の沿岸から、
えっちらおっちらと、牛の背に乗せた塩や海産物を城下町盛岡に運んできた牛方さんたち。
木でできている上の橋を痛めないようにと、牛と牛方さんはこの「牛越場」を渡りました。



Q2 次の問題です。20100622-81大西民子歌碑 (150x113) (2)

盛岡出身の女流歌人を顕彰する記念碑です。
石川啄木にあこがれて短歌をつくりはじめ、歌集9冊を刊行しました。
歌人40歳のころの短歌に世界的なチェロ奏者平井丈一郎さんが曲をつけました。

この歌人の名前をご存じですか?

大西民子(1924~1994 本名は菅野)
盛岡市八幡町生まれ。
城南尋常小学校、県立盛岡高等女学校(現在の県立盛岡二高)、奈良女子高等師範学校卒業。
釜石高等女子校教諭として、24歳まで国語と音楽を教えました。
主な歌集は『まぼろしの椅子』など9冊刊行し、迢空賞、詩歌文学賞、紫綬褒章などを受けました。

短歌界に鮮やかな足跡を残した大西民子は、

生涯に渡って岩手盛岡の風光を愛し望郷の歌を詠み続けました。
熱烈なファンも多く、歌碑は民子の人と文学を慕う全国の人々によって建立されました。



Q3 『きららかについばむ鳥の去りしあと 長くかかりて水はしづまる』

この顕彰碑に刻まれている歌です。
どんな状況の、どのような歌と思いますか・・。

民子の夫も先生でしたが、ほかの女性のもとに暮らすようになりました。
苦しみや悲しみ、あきらめ、女性としてのさまざまな感情がほとばしる歌ですが、
浄化されたような透明感さえ感じられる歌ですね。
ワタクシコトラコ、
これほど歌人のバックボーンを知ってから作品が180度変わって感じられた歌はありません。
皆様はいかがでしたか?




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立原道造「盛岡ノート」

店長のコトラコが出張のため、
ワタクシ、店長の美人秘書サカコがおしゃべりさせていただきます。 コホン。


秋風が肌に冷たくなりはじめ、すすきや、秋の虫や、紅い林檎の実が成る、丁度今頃の季節のこと。

昭和13年(1938)、一人の青年が盛岡に暮らしました。

その青年は夭折の詩人 立原道造。

亡くなる半年前の事です。

ゲーテが『イタリア紀行』で、恋人シャーロッテに向けた書簡の体裁で書いてあることになぞらえ、立原道造が恋人の水戸部アサイに向けた文章で書きあげた『盛岡ノート』。

“僕は文字で景色をつたへたいなどと いままで一度もおもひはしなかった。しかし いま おまへのためにこの僕の眼がはじめて風景を見たおどろきを そのまま おまへにつたへたいと おもふ ・・中略・・僕の言葉の無力さ!どうしたら おまへに この風景をつたへることが出来るだらうか この風景のよろこびを”(『盛岡ノート』より抜粋)

まるで道造が書いた盛岡へのラブレターのようです。

盛岡と道造の縁をつないだのは、画家・深沢紅子。
道造は愛宕山の裾野にある紅子の実家「生々洞」に住み、その伯母(マメノオバサン)の世話を受けながらおよそ一か月滞在しました。

「光の中にある」と表現したほど、
盛岡での暮らしや人々との交流は彼の心に温かさとと明るさをもたらし、
景色は新鮮な感動を与え続けました。

盛岡にまだまだ滞在したいという望みは、
道造の“小さな病気”によって絶たれ帰京することになりました。

“この町には あと二日しか ゐられないのだとおもふと胸いっぱいになる そんなに この町は いいところだった!”(盛岡ノートより抜粋)


「次回はりんごの花咲く時期には必ず来ます」と、道造は幾度も周りの人に言います。

しかしその願いは、彼の死によって叶うことはありませんでした。

病床にあってなお、盛岡に想いを馳せていた立原道造。

彼が納棺された時、盛岡の林檎がそっと入れられたといいます。



昭和50年(1975)、道造の願いを叶えるように、愛宕山に彼の文学碑が建てられました。


サカコは『盛岡ノート』を片手に道造の見た景色を追いかけてみたことがあります。
丁度、今頃の季節です。

もりおか歴史文化館に荷物を置いて、みなさまも立原道造のような気持ちで盛岡の街を歩いて楽しんでみてはいかがでしょうか・・。
(愛宕山展望台奥にある道造の詩碑まで当館からゆっくり歩いて45分)



アダジオ
光あれと ねがふとき
光はここにあった!
鳥はすべてふたたび私の空にかへり
花はふたたび野にみちる
私はなほその気層にとどまることを好む
空は澄み 雲は白く 風は聖らかだ


盛岡城跡公園  その1・賢治さん

“「かなた」と老いしタピングは・・“という始まりの、宮澤賢治の『岩手公園』という詩。

盛岡城跡公園 (もりおかじょうあとこうえん)(岩手公園)の芝生広場の一角に
この詩全文の碑があります。

ちなみに、このミスター・タピングは、実在の人物で明治40年に盛岡に来て、宣教の傍ら盛岡中学で英語を教えていたそうですし、夫人は盛岡幼稚園の創始者として広く知られている方でもあるんだそうですよ。

何をかくそう、実は・・

ワタクシとら店長コトラコ、この詩の特に最後の部分が大、大、大好きなんです。

『弧光燈(アークライト)にめくるめき
 羽虫の群れのあつまりつ
 川と銀行木のみどり
 まちはしづかにたそがるゝ』


賢治さんは下の橋の近くの下宿から、毎日のように中津川沿いに散歩していたと
何かの本で読みました。


川のこちら側から見える、建って間もない赤い煉瓦の銀行。

文化のカオリ、ハイカラな空気、澄んだ盛岡の風・・・

そんな景色を賢治さんはきっと、日によっては胸をどきどきさせたり、どこかしら切なく眺めたり、

いづれにせよ立ち止まってじっと見ていたんだろうなあ。

盛岡歴史文化館から歩いて1分のところに、賢治さんが佇んでいた・・

なんて考えてワタクシ・コトラコ、ちょっと胸がきゅんとしてしまうワケです~。

そう、確かに、川を挟んで見るこの景色・・イマデモほんと美しいです・・。


そんな銀行も今年(2012)の夏、建物内での営業が終了しました。


時が流れたんですね。

(この詩は賢治の死一か月前、昭和8年8月22日の日付のある『文語詩稿・一百編』の中に収められています。)



今、公園の中を中津川沿いに、賢治清水の方に向かう出口あたり・・

キンモクセイの香りが・・とってもよいかんじですよ~~。
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